佐々木閑「出家的人生のすすめ」集英社新書

これを読んだら、いかに日本の仏教が本筋から乖離しているかがよくわかった。
お〜い、H(大学の友達、寺の住職)、ここ読んでるか〜?
お前もこの本、読んだ方がいいぞ〜!

出家とは何か。
僧とはどんな存在か。

日本の寺のように、もしくは京都の寺のように
午後5時になったら門を閉め、誰も入れない寺。
寺の男子は寺を継ぎ、子供がまた僧侶になる世襲の寺。
寺の女子は婿養子を迎え、子々孫々と同じ寺に居続ける寺。
拝観料を取る寺。
庭に家庭菜園を作り、簡単な野菜は自給自足で賄っている寺。
高級車を乗り回し、宗教的寺と居住区を分けて居住区のプライベートには
固執する寺。

これらは日本だけの姿だそうだ。
そしてこれらは仏教本来の、サンガというお釈迦様が作った
大元の姿とはかけ離れているのだ。
この本を読んで、あの寺やこの寺を思い浮かべ
日本の仏教は仏教ではなかったのだ、
京都の寺は、寺ではなかったのだ、
と、新たな驚きをもった。

以前から、拝観料とか仏教会とか傲慢な住職とか
細かいことを挙げればきりがないが、軽い違和感を持っていたが
それに対する説明を、仏教学者が答えてくれたような内容だった。

前に読んだ「犀の角たち」に比べれば軽い内容だが
「犀の角たち」の方がぼくは面白かった。
7月8日は母の命日。
7月13日は母の誕生日。

毎年、母の命日に合わせてお供えを送ってくださる人がいる。
亡くなった直後はさすがにたくさんの人が弔問に来て、
お供えも山のようにあったのだけど
一年ごとに一人減り、二人減り
とうとうたった一人になってしまった。

母亡き後、たった一人になってしまったぼくの健康を慮って
この方のお供えの品はいつもぼくのことを考えての品ばかり。

ご飯パックの詰め合わせ、
100パーセントフルーツジュースの詰め合わせ
野菜ジュースの詰め合わせ、
よほど、食べていないと思われているのだろうか。
よほど、栄養が偏っていると思われているのだろうか。

ぼくは案外まんべんなく食べています。
コンビニ弁当も食べるけど、
スーパーへ行って野菜も買うしフルーツも買うし
発酵食品も買うし、時々は甘味も買う。
肉も買うし、ヨーグルトも買う。
スーパーへ行くと出来合いの惣菜よりも
自分で料理するための素材を買う方が多い。

そんなこんなで、ご心配ばかりかけていますけど、ぼくは大丈夫です。

お供えは、開ける前にちゃんと仏壇の前に備えて
ちゃんとロウソクに火を灯し
お香を焚いて、読経してから開けていますよ。

今年は膝が痛いゆえ、正座ができずにダイニングから椅子を持って来て
仏壇の前に置いて

さて、我が家で読経する人間が代々使って来た表紙がボロボロになった経典を開いて
正信偈を朗々と読み上げました。
誰もいないので(笑)
肉体の耳を持つ人はぼく以外いないけど
なかなか、いいお経が読めたと思います。
曳地トシ、曳地義治「雑草と楽しむ庭づくり」築地書館

丸善の、ガーデニングの棚で偶然見つけた。
パラパラとめくっていて、草取りの心得として
(引用)
一度にやろうと思わないことが大切だ。のばし放題にしておいて、一気にやろうとすると、
いやになってしまい、再びぼうぼうにしてしまう。一気にやる→いやになる→ぼうぼう
伸び放題→いやいや一気にやる→懲りてしまってやりたくない→ぼうぼう、という悪循環
に陥ってしまう。
(引用終わり)
というところで

あ、ぼくのことだ


3年前にかなり徹底的に草取りをしたのに2年前の春にはジャングルが復活。
今年はもうやる気がなくてジャングル増量。
なので、この庭と相性がいい植物を自由に伸ばしているだけ
と自分をごまかしている現状。
どうすればいいのか。
またパラパラとめくっていると(実は立ち読み)
大きくて目立つものは抜き、それ以外は高さ5センチで刈り揃えると
遠目にはグリーンのグランドカバーに見える。
という素敵なアイデアが書いてあった。

これは、立ち読みは失礼だ

いつか体が動かなくなったら、庭師さんに入ってもらわないといけないだろうけど
自分でできる間は自分でなんでもやっておきたい。
そう思って道具は揃えたが、いかんせん、知識がない。
選定の本も読んだがいまいちわからない。
木を刈り込んでいる現場に遭遇するとしばらく見ている。
刈り込まれた木々を観察すると、造園家によって刈り込み方に美醜があることもわかった。
一番感動したのは某ホテルの建物横にある椿の木の剪定だった。

美しい

そもそも、ぼくはあからさまに日本庭園みたいな庭を作りたいわけではない。
蝶が好きで虫が好きで、野良猫や野鳥が来る庭にしたいだけ。
刈り込みすぎず、かといって動きやすい庭、
花を求めず、野鳥が好きな実が生る木があって季節ごとにいろんな生き物が来ればいい。
ビワを食べたら、種をまき、みかんを食べたら種をまく。
木が増えれば日光が届かなく生るから雑草の力も衰えるだろう。

いつまでかかるねん!

そんな中、ぼくの理想とする生き物たちのための庭づくりをされている
曳地さんの本と出会った。関西の庭師さんじゃなさそうだけど、
とりあえず、これで全部引っこ抜かなくてもいい言い訳ができた。
無理に引っこ抜くと腰を痛めるし、かといって根を残すとまたそこから生えて来る
そう思って無理にでも引っこ抜いていたが、この本によるとどうやら
そうでもなさそうだ。高さ5センチにきりそろえると、それより高いものは
生えてこなくなるらしい。

本当かな?実験だ。実践実験だ。
昨夜体が痒くて起きてしまった。
無意識に身体中をボリボリ掻いていた。
布団にいるダニかと思っていたが、
よくよく考えると、布団と接触しているところが痒いのではなく
布団から出ているところが痒いのだった。
ぼくは最近は右向けにして寝るのだが
左の足、背中、足の裏が痒い。
起きて電灯をつけてもダニに咬まれた跡がない。

で、今朝、ボリボリ掻いている時にはた、と気がついた。
「トマトだ」
ぼくはトマトアレルギーなので、滅多にトマトは食べない。
1年に1回、食べるか食べないか、程度。
トマトをいただくことがあっても
「アレルギーだから」
とありがたくお断りすることもある。

でも最近、フィトケミカルという言葉を知って
果物や野菜の皮や種にそういう抗酸化作用のある物質があるらしい。
色々考えて、ミニトマトなら、皮も種もそのまま食べられるんだから
フィトケミカル用の高いジューサーミキサー買わなくても
摂取できるんじゃないかと考えた。

スーパーでミニトマトをそういう目で見ると
結構今種類があるんですよ。
果物みたいに甘い
という種類を買って来て、普通のミニトマトも買って来て
洗ってヘタを取ってそのまま食べた。
2パック食べたかな。
その上、母のお友達から命日のお供えにトマトジュースが送られて来たので
それも飲んだ。

アレルギーなのに、1年分に摂取するトマトの何倍ものトマトを一挙に食べてしまった。
で、夜、ボリボリボリボリ。
痒い痒い痒い痒い。
足も痒い。足の裏も痒い、背中も痒い、首筋も痒い、頭も痒い、手のひらも痒い。
口の中も痒い、舌も痒い。
全身痒くて痒くて、夜せっかく寝ていたのに起きてしまうほどの反応が出てしまった。

やっぱ、トマトはミニでもダメだったか〜。
あと、ナスとマンゴーとパインアップルも痒くなる。
ナスもマンゴーも好きなのに。食べる量を制限しなくてはいけない。

ゴマは気分悪くなるので、料理に入っていたらちまちまと取らねばならない。
なので、アレルギー持ちなので、もうよそでは怖くて食べられないので
外食はお昼ご飯の社食のみ。それも見本を見て、アレルギー物質を確認して
今日のご飯はどれにもゴマが入っている、ということであれば
社食は諦めて、コンビニでクリームパンとコーヒーのみってことも。
佐々木閑「科学するブッダ 際の角たち」角川ソフィア文庫

難しい内容だった。
面白そうなことが書かれている、という感触はあるのだが、一度読んだだけではさっぱりわからない。
なので、つづけさまに2回読んだ。
著者は仏教学者。
科学と仏教のつながりを内から欲するままに3ヶ月で書き上げたそうだ。
持論の展開であって(大抵の本はそういうことだろうが)
しきりと科学と仏教のつながりを主張されるが二度読んでもそうは読めなかった。

科学の項では神の視点から人間化へと移る歴史的過程が描かれる。
神の視点とは、科学が未熟でキリスト教的教えが強大であった時代
科学的にわりきれないところを「神が作ったから」としてしまうこと。
例えば、光の粒子が太陽から地球に届くと言っても粒子は何もないところを飛んでくるわけない
と考えて、宇宙にはそういう粒子を移動させる力を持つ不思議な物体が充満しているから
光が地球まで届くと考え、その物体を「エーテル」と名付けた。

あるいは、数学は頭の中だけで考える学問であるし
数学の数式はどれもこれもすっきりして美しいものであるから
それは神が作ったものだと考え、割り切れない数字や無限大という概念、
ルートとか無理数とかそういうものを最初からありえないと切り捨てる考え
それを神の視点と著者は名付けている。

時代が下っていろんなことを考える人が現れる。
キリスト教的教えから脱却して、科学世界は必ずしも
美しいものだけではなく、すっきりしたものだけではなく
神の視点からは考えつかないような混沌状態も「あり」なのだ
ということを主張する人が現れる。

そういう人たちは、時代の流れに棹差し、それまで信じられてきた
キリスト教的世界観に違を唱える人た地であるから、時代の趨勢からは攻撃される。
神はそのような不恰好な世界を作られない
というわけだ。逆にいうと、世界から批判非難された考えがあれば
それは神の視点から人間化されたことへの世間の反応であるから
逆にその考えはパラダイムシフトの可能性が高い
と著者は言う。

それを「下降感覚の原理」と名付け、歴史の中にそう言う流れを見つけることができれば
その時点でなされた主張が人間化のポイントであると。

「神の視点」「人間化」「下降感覚」どれもこれも神を上に置き、人間を下に置いた
前提で思いつく単語であることにぼくは違和感を感じた。
キリスト教的感覚からそれから脱却した人間感覚というなら、それは
上から下への流れではなかろうと思う。その時代の人間ではあるまいし
歴史を俯瞰してパラダイムシフトを探しているのなら、それは異質に変化(へんげ)したもの
であるかもしれないが、上から下へ変化(へんか)したものではなかろう。

仏教の項では、仏陀釈尊の教えから日本を含む東アジアにおける大乗仏教の台頭までが語られる。
なかなかに、目から鱗な内容だった。
大学で学んだ限りでは、大乗仏教は大きな船でたくさんの人を救済するから
小さな船で一人だけ自分だけ悟りを開こうとする小乗仏教より進化進歩した仏教なのだ
という教育であり、そう習ったのでそういうものなのかと信じていたが
豈図らんや。歴史の流れから見ると全然違うのであった。

仏陀釈尊が最初に説き涅槃成仏するまで説いた初期仏教の教えは
精神的努力=瞑想によって精神を高め、外的ストレスにブレない自分を
自分の力で作り上げていく。そのために、ありとあらゆる人間としての営みを
他に依存し、生の時間のほとんどを瞑想に捧げる。
そのために、食は乞食(こつじき)で在家の残り物しか食べてはいけない
性の営みを行なってはいけない、という戒律がある。

しかしそういう自力での悟りへの努力というものは、在家の人たちには無理で
そのために、過去世でブッダに会い未来にブッダとなると決めた人生が
かつてあったと仮定し未来にブッダとなる過程の修行として在家の生活があるのだ
と理解すれば、在家のままブッダへの道を歩くことができる。
そういう考えが大乗仏教の台頭へと繋がっていく。

初期仏教は自力、大乗仏教は他力と教えられたが
その意味はここにあった。
ブッダは自分の精神の中でしか悟りを開けないことを仏弟子たちに教え
方法は教えたが悟りへ至るまでの努力は個人個人に委ねた。
一方の大乗仏教は一例を挙げるなら
阿弥陀仏という頂上的存在とスピリチュアルなつながりを持つために念仏を唱え
阿弥陀仏に救済の要求をする。阿弥陀仏側からすれば、念仏を唱えれば
救済してやろうというので、この場合念仏というのは仏と念者との間に
交わされた契約であるというのだ。この概念は新鮮で目からウロコであった。
大乗仏教のほとんどすべてはこの形式であるそうで
だから、ブッダ釈尊の唱えた初期仏教と東アジアに広まった大乗仏教は
似て非なるもの、異質なものであると著者は言っている。

ぼくも仏壇の前で「三千大千世界」と読経することがあったが
その度に「三千大千世界」とは何だろうと疑問だった。
それがこの本を読んで、なるほど、そういうことだったか、と初めてわかった。

初期仏教から大乗仏教の流れは、科学とは逆の方向
ブッダ釈尊が唱えた丸々人間化の精神的努力から
未知なる力、超絶的な力(阿弥陀仏等現存しなかった仏)を無条件に信じる
神の視点への移行である。
その歴史的流れとは別に、仏教学者である自分はブッダ釈尊が実際には何を
どう言ったのか、悟りとは具体的にどういうものを指すのか、ブッダ釈尊の悟りの内容とは
正確にどういうものなのかを様々な文献から紐解いていくと。

自力での自分の頭の中のみでの悟りの体験というものは
現代、あるいは未来の人間化が進んだ科学、脳科学によって解明されるかもしれないと。
その時代になれば、振り返ってブッダ釈尊を見れば、
ブッダ釈尊は稀有な脳科学者であったという認識が生まれるのではないかと、
それが著者の結論であった。

なかなか、面白いことを言う学者さんなので、
丸善で別の本も買ってきた。